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生き方に自信を持った男になるためには…サッカー指導者・松本育夫が伝え続けた心構え【ごはん、ときどきサッカー】

投稿日:2021年3月17日 更新日:

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五輪で銅メダルを獲得した

日本で初めて開催されたFIFAの国際大会で監督として日本を率いた

ガス爆発に巻き込まれる悲劇が襲ったが麻酔なしの手術を3回乗り越え

その後も監督としていろいろなチームを指揮した

 

79歳になった今も元気いっぱいな姿は変わらない

そんな松本育夫氏に五輪でメダルを獲ったころの話や

その後の監督人生で大切にしたことなど

エネルギーを分けてもらえるような話を聞いた

 

60年代の日本サッカーは五輪がすべてだった

1968年のメキシコ五輪について語るには、まず当時のサッカーを取り巻く環境について話をしないといけないでしょうね。1964年東京五輪のころはプロが誰もおらず、日本のサッカーは、当時アマチュアだけ参加できることになっていた五輪がすべてだったんです。

 

その1964年東京五輪で勝つためにデットマール・クラマーさん(故人)が招へいされました。1960年ローマ五輪のときは予選で韓国に敗れて本大会に出場できなかった。けれども4年後は東京開催ということで、もし日本のサッカーが惨敗するようなことになったら「日本でサッカーは通用しない、育たない」ということになってしまう。だから日本サッカー協会は必死だったんです。

 

そのときの日本サッカー協会会長は野津謙さん(故人)で、「日本人に一番合うのはドイツ人のものの考え方だ」と。野津さんは医者で、医療の世界もドイツ主流だったので、ドイツサッカー協会に紹介を依頼してクラマーさんに白羽の矢が立ったわけですね。

 

クラマーさんとの最初の出会いは1960年の五輪が終わった後ですね。日本代表は8月下旬から9月末まで西ドイツ(現・ドイツ)、スイス、ソ連(現・ロシア)、チェコスロバキア(現・チェコと現・スロバキア)、イングランド、イタリアと6ヶ国を50日で回るというヨーロッパ遠征を行ったんですけど、そのとき西ドイツのデュイスブルクにいたクラマーコーチのところで2週間合宿をやって、初めてそこで会ったわけです。そこで1964年東京五輪で結果を残すという具体的な目標が出されました。そのあとクラマーさんは10月に日本に来て、そこから年に1回、我々は指導を受けたんです。

 

1963年、東京五輪の前年にもヨーロッパへ遠征したんです。6月5日、午前中に西ドイツに到着して午後、西ドイツ五輪代表との試合があったんですけど、当時はドイツへの直行便なんてなくて、30時間ぐらい飛行機に乗るような感じですよ。その長旅から着いていきなり試合です。

 

そうしたら相手は五輪代表の選考試合でやる気満々、しかも私の相手は後の西ドイツキャプテンのベルティ・フォクツですよ。最初にカニバサミのタックルを食らって、その日のうちに靱帯断裂という診断が出て、そこから7月上旬までの約50日間の遠征期間中、ずっとギブスをはめてました。結局、そのケガは1年過ぎて東京五輪の頃になっても長引いて、プレーは元に戻ってなかったですね。

 

その東京五輪は初戦のアルゼンチン戦に3-2と勝ったんですが、ガーナに2-3、チェコスロバキアに0-4で敗れてグループリーグ準々決勝(※3/18修正しました。事実関係の間違いがありました。申し訳ありませんでした)で終わりました。でもそこがメキシコへの準備期間になったんですよ。

 

というのも、韓国も東京五輪に出たんですが、1964年が終わってメンバーを入れ替えた。一方で日本はクラマーさんに教えられた選手が7年間一緒にやってた。それで日本が韓国に競り勝ち、メキシコ五輪に出られたんだと思いますね。

 

僕がすごいと思ったのは当時の日本サッカー協会の技術委員会が1964年のメンバーに選んだ選手が1968年までほぼ残っていった、その選手を見る目ですね。技術委員会の眼力、選手の能力を見抜く力はすごかったですね。

 

そのときに僕と一緒の左ウイングのポジションを争っていたのが杉山隆一で、結局追い抜けなかった。何と言っても運動神経がすごかったですよ。

 

ヨーロッパ遠征の帰りにハワイで2日間休養させてもらったんです。コーチの岡野俊一郎さん(故人)が航空会社に人脈を持っていて、欠航したという格好にして休ませてくれました。その2日間、みんなでワイキキビーチに出た。僕はリハビリで海で屈伸なんかをやってたんです。そうしたら杉山はボードに乗ってサーフィンやってるんですよ。

 

「おい、お前さすがだな。出身が清水だからいつも練習してるんだろう」って聞いたら「今日初めて乗った」って。その運動神経たるやすごかった。だからサッカーのとき、杉山はフェイントを仕掛けて相手が反応したら相手より早く動き出せたんです。

 

僕はそのサーフィン姿を見る前から「杉山にはちょっと勝てないかなぁ。アイツと違ったタイプの選手にならなきゃいけない」と思って、味方を使って相手を抜こうと、いろんな種類の崩し方を持つようにしました。

 

そこで東洋工業(現・サンフレッチェ広島)の桑田隆幸という、ユースのときから一緒にやってた選手も代表チームにいたから、ウイングとして外側を崩すプレーのバリエーションを桑田と2人で増やしてたんです。練習で僕はほとんどワンタッチワンタッチで壁役の選手に渡して抜く。あとは同じ方向に走ったらスピードは遅く感じるけど、すれ違うんだったら早く感じるでしょう? だから相手と逆の動きをするとか、そういう工夫もしてました。でも結局杉山を抜けなかったから、杉山が左ウイング、僕はいつもと逆の右のウイングをやったんです。

 

あのころはもう指導者、監督というもののあり方、コーチというのはどういうものかというのが確立されてましたよ。チームの方針は多分監督とコーチで話をするんでしょうけども、監督というのがチームの統率を行って、コーチは嫌われても理論的に選手を導くという体制の組織でしたね。

 

ただ、今だったら考えられないのはスタッフが長沼健監督(故人)と岡野コーチしかいなかったわけですよ。岡野さんは語学も達者だからマネージャーもやるんです。GKコーチやフィジカルコーチ、トレーナーとかドクターなんかはいないんです。マッサージなんか受けられない。さすがにメキシコ五輪本大会にはマッサージ師を1人連れて行きましたけどね。そのマッサージの人は試合に出そうな選手は丁寧にやるわけですよ。出ないだろうと思う選手はささっと終わるわけです。それくらい賢くないと出来なかったでしょうね。

 

長沼さんが日本代表の監督になったのは33歳ですね。長沼さんは親分肌で、しかも青年監督で選手の気持ちが分かるんです。

 

たとえば8月の検見川の10日間合宿で、午前と午後練習やったら夜の食事なんか進みませんよ。そうしたら大先輩の八重樫茂生さん(故人)が、練習終わったとき僕のスパイクの袋に1000円札を入れてるんです。それが何を意味するかというと「これでお前の分も含めてビール買ってこい」って。

 

それで風呂から上がったらすぐどっかでキュッとやる。それから30分後に食事したらビールが胃を刺激して食欲がものすごく出るんですよ。監督は選手を大人扱いしてくれてたから、それくらいのことは見逃してくれたんです。それにたっぷり食べてよく寝れば、はるかに練習効果が出るだろうって。

 

ただ監督は選手がどれくらい食べてるか食事のとき見てるじゃないですか。そうしたらみんなしっかり食欲があってたくさん食べてるから、「あぁ、オレの練習は量が少ない。しごきが少ない」ってなっちゃってましたけどね(笑)。

 

それから選手の中にまとめ役がいました。たとえばキャプテンの八重樫さん、あるいは渡辺正さん(故人)ね。こういう方が監督のためにやるぞという精神的なものを作りましたよ。渡辺さんが試合前に「おい、監督のためにやるんだぞ」と気合いを入れてくれるんです。だから1つのチームにはなってました。

 

でもその当時って条件は悪いんですよ。合宿は検見川で、4人1部屋、クーラーはないんで、8月の合宿は地獄ですよ。昼寝なんか暑くて出来ないんだから。大きな水道のタンクがあったんで、その下だったら少しは冷えるからって寝てたらボワーって音がするし。

 

遠征に行くと自分のユニフォームは自分で、しかも手で洗うというのが普通でしたからね。遠征でも部屋は個室じゃないし。1963年の遠征で初日にケガをした僕は、やることがないから試合に出た選手の洗濯を50日間やってましたよ。

 

それに当時は身銭を切って遠征してるようなもんですよ。旅費は出ますけど、それ以外は一切出ないし手当もないし、食事代なんかもまったくない。そうやって苦労しただけまとまりはありましたよね。個性は強かったけど。

 

 

メキシコ五輪で躍進した理由は準備の良さ

メキシコ五輪前の最終合宿も検見川でやったんですけど、そのときの合宿で岡野さんがグループリーグで対戦するナイジェリアの選手の情報を、商社か大使館か、どこか経由で手に入れて壁に張ってくれたんです。写真が載っててその下に特徴が書いてある記事なんですけど、写真が新聞のコピーか何かで真っ黒に潰れてて顔が分からないんですよ(笑)。当時、日本が事前に手に入れてた情報はそれくらいです。

 

でも現地に行ったときに、平木隆三さん(故人)がスカウティングをやってくれて情報を上げてくれたんです。平木さんは相手のチームの非公開練習にも何かうまいことやって入っちゃうんですよね。そのぐらいのことは平木さんはやってました。

 

メキシコに入って一番憶えてるのは、日本の準備の良さですね。10月14日からの本大会の前に、7月中旬から8月中旬までヨーロッパ遠征に行ってたんですが、その遠征から帰ってきて疲労を取ろうということで、上高地か何かで合宿だといって休ませてくれましたよ。それがまずよかった。

 

そこでリフレッシュして、メキシコ入りする前にアメリカのカルバーシティという、メキシコの高地と同じようなところで1週間の合宿をやって、そのあと大会の1週間前に選手村に入ったわけです。これもよかった。

 

それから1968年3月、一度メキシコに遠征して高地での試合を経験してたんです。そのときいつもなら動ける中盤の選手、宮本輝紀さん(故人)とか小城得達とか、まぁ動けないわけですよ。ハーフタイムになったら鼻血が出る。酸素ボンベで吸入したりしなきゃいけない。

 

そういう経験が本大会になったら全部生きましたね。それで選手村に入ったら、最初の1時間は全体の練習をするけど、あとの30分は自分の練習をしろと。選手も大人だったから前回の経験から何をすればいいか自分で掴んでましたから。たとえば僕だったら300メートルを10本ぐらい有酸素の状況を作るということでやったら、本大会になったら前回味わった体力的なハンディは全くなかったですもんね。だからそういう準備のよさはありました。

 

それでメキシコ五輪では初戦のナイジェリアに3-1、ブラジルと1-1、スペインに0-0と引き分けてグループリーグを突破しました。決勝トーナメントではフランスに3-1、準決勝のハンガリーには0-5で負けたんですが、3位決定戦のメキシコ戦は2-0と勝って銅メダルを獲得しました。大会の日程は全部中1日でしたね。

 

メキシコ戦は運もあったと思います。相手にPKを与えるピンチはあったけど、それを決められなかった。それでも地元チームを破りましたし、対戦したチームは世界のベスト10に入るようなチームばっかりでした。

 

だけど選手自身もメダルなんてことは1人も考えてなかったですよ。監督もコーチも考えてなかった。無欲といいますか、選手の持ってる能力というのが最大限に出て1つにまとまったということでしょうね。

 

僕が直接岡野さんから聞いた話なんですけど、メキシコ五輪が終わった後に杉山と釜本邦茂のところに7,200万円のオファーが来たらしいんですよ。でもプロの世界のことが全く分かってなかったから2人も断ったわけです。1958年に長嶋茂雄がプロになるとき契約金が1,800万円と言われてましたから、その当時の7,200万円ってすごい金額でした。いかに日本のサッカーがプロの世界になってなかったということですね。

 

釜本なんかが海外に行ったら、周りのレベルが上がって点を取らせてもらえるから、世界でも有数のストライカーになってますよ。釜本は日本サッカーで100年に1人出現したらいいくらいの選手です。何せ大学4年間はずっと得点王、日本サッカーリーグでは現役18年間、そのうち7年間は監督兼任で7回得点王、日本代表は出場76試合で75得点、メキシコ五輪では7得点。こんな選手が日本チームにはいたんですよ。

 

そこから53年経ったんですけどメダルはまだないですね。残念だったのは2012年ロンドン五輪でした。あのときは3位決定戦で0-2と韓国に敗れましたから。韓国の選手はメダルを獲れば兵役が免除されるということがあるから、そういうものでゲームが決まったと思いますね。

 

僕は1960年、18歳で代表チームに入ったんです。その年の11月6日、韓国で試合をしたんですけど、これは1962年チリ大会の予選だったんですよ。選手はワールドカップというものを知らないんだけど試合はやってました。

 

日本の選手がワールドカップを本当に認識したのは1966年イングランド大会です。そのとき代表チームはヨーロッパ遠征をやって、長沼監督と岡野コーチがうまく予定を作って、準決勝、3位決定戦、決勝と生で見せてくれたんです。それで初めてワールドカップとはどういうものか知らされました。

 

10万人の専用球技場であるウェンブリーが超満員ですよ。決勝のイングランドvs西ドイツは、イングランドのジェフ・ハーストのシュートしたボールがバーに当たって跳ね返って下に落ち、そのゴールが認められたというゲームでした。あの白熱した試合を見て、試合を終わってから渡辺正さんが「おい、ワールドカップで勝つのは愛国心がないと無理だぞ。国のために戦わなかったら勝てるはずがない」ってね。それは今でも覚えてます。そして1970年以降、日本はワールドカップのほうに焦点を少し当て始めました。

 

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監督として重視したのは「心構え」

メキシコ五輪が終わって11年後、メキシコのときに僕は26歳でしたから、32歳で日本ユース代表の監督になって、37歳で日本で初めて開催された国際サッカー連盟(FIFA)の大会であるワールドユース(現・U-20ワールドカップ)に臨んだんです。僕はそりゃ厳しかった。僕をケガさせればみんなが楽になると思ってた選手もいたくらいですね。

 

最初の合宿は鳴門のスタジアムですよ。用具入れにベッドを持ち込んでスタジアムで寝泊まり、食事はスタジアムの前の食堂。検見川で合宿すると広い部屋でみんなで雑魚寝です。

 

なんせワールドユースにやって来る相手はもうプロの選手。ディエゴ・マラドーナ(故人)なんかも含めて。こっちは高校と大学のサッカーやってた選手しかいないんです。動きに負けたら駄目だということで鍛えましたね。走った、走った。だって朝食前に走り、午前練習、午後練習、夜は体育館ですからね。今、当時の選手は「あれがあってよかった」と言ってくれますよ。僕が7年間か、若い選手たちを指導して、その中から36人のJリーグ監督が出ましたからね。

 

僕の指導はね、ずっと変わらないんですよ。最後に監督をやった2013年の栃木SCでは春に「監督をやらない」と言っておいたんですけど、9月に成績が振るわなかったから残り10試合で監督を引き受けることになったんです。そのとき「残り10試合、全部勝ちますから」と会社に言って、10勝するための2枚のレポートを社長と会長に出して、同じものを選手にも見せました。

 

そこで初めて選手たちと話をしてたんです。その話は「プロとしての選手の心構え」。プレーしてたらお金もらえると思ってる選手もいるんですよ。まず「給料はどっから出てきてるのか、誰がこのお金を出してくれてるのか」という問いから始まって。

 

「もしあなたたちと同じ歳のサラリーマンより2倍、3倍の給料をもらってるんだったら、そのお金はサポーターが頑張って試合を見に来てくれたときのお金。あるいはこのクラブを応援したいと思ってくれたスポンサー、そして営業マンが歩いて集めてきてくれたお金。そのお金を好きな道のサッカーでもらってるんだ」と。

 

「そこに感謝がなかったらプロじゃないぞ。だから感謝という気持ちを持った24時間の行動をしろ」「そうしたら練習で力を抜くとか出来ないだろう? その手を抜かなかった練習を試合に全部持って行け」ってね。

 

そうしたら選手は変わりましたよ。10戦指揮して、結局7勝2分1敗でした。心がけと基本ですよ。それに同じメンバーだったけどポジションは変えました。今柏レイソルにいるクリスティアーノは自分が上手いと思ってるからアウトサイドのポジションなのにどこにでも出てきてボールに触るわけですよ。

 

スローインはやる、CKもFKも蹴る。だから外側がすっかり空いちゃう。だったら真ん中において好きなようにやらせたらいい。基本的にはセンターラインを強くすればいいということで、その後ろにパウリーニョがいて、出番が減っていたFWサビアを入れたら点を取ってくれる。そうしたら、そのときJ2だったけど遠藤保仁も宇佐美貴史もいて、翌年はJ1で優勝したG大阪とやって、4-2で勝ちましたよ。

 

でも同じことは1999年に川崎フロンターレを率いたときもやっているんですよ。あのときは残り31試合で監督を引き受けて、24勝2分5敗です。やっぱり選手の心構えをプロにさせられるかで変わるんです。

 

それに試合前のミーティングで「今日、お前の前の相手に絶対に勝つという意欲を持て」ということは言ってました。「全員相手より活動量で上回れ。そうしたら必ず勝てるから」って。そういう部分は1979年からずっと変わってないです。サガン鳥栖のときも同じことをやりました。

 

あとは基本プレーは徹底的にやりましたね。現在、若い指導者の中に基本を教えられるというのが非常に少なくなってきた。ゲームの中で1、2回しか使われないことを知ってるのがいい指導だと思って、まったく基本が出来てない。それじゃいけないんです。

 

それと指導者の理念と哲学、1つのチームを作る、1人の選手を育てるというのは絶対に曲げない哲学が必要なんですよ。僕がユースの選手を指導したのは、将来の日本代表で通用する選手を育てるためで、そのための哲学を持って、「将来の日本代表だぞ。これくらいのことが出来なかったら日本代表になれない」ということを言ってきたんです。プロの選手たちには自分の生活を確立するために「勝たなかったらプロじゃない」と言い続けましたね。そしてそのお金を払ってくれる人がどれだけ苦労してるかって知らなきゃいけないんです。

 

ただ1979年のワールドユースの当時は、失敗というか、分かってなかったことがありましたね。練習というのは試合のためにやるわけでしょう。相手のいない試合なんかないですよ。だから必ず相手を付けた練習を徹底してやらんと駄目なわけです。それが当時はまだ日本のサッカーの中でなかった。今もシャドープレーという相手がいないでどうボールを動かすかというトレーニングは多いけど、それは考えなきゃいけない。

 

ワールドユースのあと僕はドイツに留学して研修を受けたんですけど、「練習というのは試合のためにやるんだ」と、そのときはっきりプロの指導者たちに見せつけられたんです。前から知ってはいたんだけど、やっぱり違った。

 

僕が研修に行ったときのケルンはリヌス・ミケルスという1974年にオランダ代表を率いた監督がいて、午前中は体力のトレーニング、走るとかそういうメニューで、午後になって技術戦術のトレーニングになったら全部相手を付けてるんですよ。この監督が言ってるのは「周りを見ろ!」「周りを見て考えろ!」「周りを見ないんだったらいつまで経ってもうまくならないんだから、ここから帰れ!」って。ワールドカップに出てる選手が怒られてるんですからね。

 

それは参考になったんですけどね、ただ僕はJリーグの指導でちょっとまた別の方法を使いました。ブラジルの選手はサイドキックの練習なんか全然乗ってこなくて適当なんですけど、ゲームになったら素晴らしい。それにちょっとくすぐらないといけないということで、「おい、今日点数入れたら腕時計1つあげるよ」ってね。それで安い腕時計を買ってきて渡すんです。そうしたら栃木のとき、サビアは子供がいるから子供の分までくれって言うからあげましたよ。

 

Jリーグのチーム以外では高校の監督もやったんですが、そのときも哲学は一緒です。2002年に長野県の地球環境高校の監督を引き受けたとき、不登校の生徒を17人集めて、創部7ヶ月でしたが長野県予選で優勝できたんですよ。

 

2002年4月1日に学校が開校したんですが、2月に校長と理事長に「サッカー部の生徒は何人ぐらい入学してくるでしょうか?」と聞いたら、不登校の学生を集める特殊な学校だからゼロかもしれないって言われて、「ゼロだったら僕が来た意味ないじゃないですか」って。それでサッカーマガジンに2回広告を出してもらったんです。

 

そうしたら17人来た。宮崎、愛知、山形……その17人は多分僕が相当厳しい監督だって知って来てるわけですよ。そこで僕は初顔合せのときの第一声で「おまえたち、勝ちたいか?」って聞いたんです。そうしたら全員「勝ちたい」って。そこで「勝たせてやる」と言いましたよ。そうしたら選手はシーンとしてましたよ。彼らは今まで練習もしてないんだから。

 

そのときに心構えだけはピシッとしてなかったら、厳しい練習に付いていけずみんな夜逃げするかもしれないと思って、「おまえたち、今まで家にいたときは親から小言を言われてたかもしれない。でも親から離れて好きなサッカーが出来るのは誰のおかげだ」って聞いたんです。そのうちに「親が稼いでくれたお金で自分が寮に入れて学費も払ってもらって好きなサッカーが出来ます」って話になった。「その親に感謝してるか」って質問したら全員僕の顔を見て「感謝してます」って言うわけですよ。

 

ところが言葉では出てくるけど芯はない。本筋が分かってない。それで何をしたかと言ったら、アルバイト先を探してきたんです。郵便局の仕分け、ガソリンスタンドの従業員、古物商の買ってきたもののホコリ落とし、佐川急便の段ボール運び。2人1組で夕方18時からアルバイトさせて、親がお金を稼ぐのがどれだけ大変かと体験させたんですよ。

 

通信制高校だから学校に行くのは週1回でいい。月曜日を除いた週6日間、練習は午前2時間、午後3時間、1回も休みなしですよ。しかも18時からはアルバイト。僕は途中で逃げるヤツがいるだろうと思ったら、全員付いてきた。みんなやりましたよ。それで長野予選で優勝です。

 

全国大会では3回戦で負けたけど、その選手たち、卒業したら一級品の社会人ですよ。最初に結婚した選手は25歳。その結婚式に呼ばれていったら彼が勤めている会社の会長から「松本君、なんで君はこんなに立派な青年を育てられるのか」って聞かれました。

 

僕は今まで「サッカーの世界で勝つにはどうしたらいいか」という質問はたくさん受けてきたけど、そんな質問をされたの初めてで、最初は答えが出なかったですよ。5分ぐらい考えて出たのは「やっぱりある目標を持ち、苦しい練習を体験しながら結果を出した。その結果に自信を持っているんでしょう」「生き方に自信を持って、その自信が会社の役に立ってるんじゃないでしょうか」と言いました。

 

監督としてもいろいろ経験させてもらいましたが、僕が残念だったのはフロンターレでJ1に昇格させた後、社長になったんでJ1で指揮が出来なかったことですね。今考えるとそれに一番悔いが残ります。もうどのクラブでも、どんな条件でも監督はやりません。あとは絶対ノンビリします。だけど籠もっちゃったらボケちゃうから、出てこいって言われたら出てきますよ(笑)。

 

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「誰かに合わせてくるぞ!」の真意とは

僕に関するエピソードで人から時々聞かれることをいくつかお話ししておきますね。

 

1982年スペインワールドカップのとき、解説として現地に行ったんです。夜のゲームの打ち合わせが午前中あって、「松本さん、今日はとにかく日本にないサッカーの雰囲気を伝えよう」と言うんです。どう伝えるかは何も言わない。

 

スタジアムに行っていよいよ放送を開始したとき、実況の羽佐間正雄さんが突然「松本さん聞こえますか?」って怒鳴ってきたんです。観客の歓声でほとんど聞こえないのですが、ブースが狭いからヘッドフォンの外側からその声が聞こえてきたワケですよ。それで僕は「聞こえません!」って返事したんです。

 

そうしたら怒られてね。「松本さん、聞こえないのに返事したら放送にならないです」って。初めからストーリーが出来てた、となりますね。羽佐間さんは講演で、実は解説者にこういうのがいましたと、このエピソードを話していたらしいです(笑)。

 

あと印象に残ったといわれるのが、私が放送の中で「これが世界のサッカーです」って言ったってことですね。そうしたら「どれだ?」ってみんなが見る。答えは出さずに見てる人にその映像から判断させるという、それがよかったって言ってもらいました。

 

でもその言葉って突然出たんです。解説しようとしたプレーが説明しにくかったから。テレビってのは出てる絵で解説しなきゃいけないんです。プレーが続いているのに「先ほどのプレーで」って言うのはヘタクソなんですよ。だから映像に合わせて何かを言うんですけど、そこで「これが世界のサッカーです」って言ったんですね。

 

それからフロンターレの監督をやってたとき、西が丘でFC東京と試合が9月5日にあって、このゲームに勝ったら優勝に近づくという状況で、試合終了間際に相手のCKがあったんです。16時からのゲームで茹だるほど暑くて、FWのツゥットは動けなくなるし3人ほど足が痙攣していて。それでマークの確認の意味でピッチに向かって「誰かに合わせてくるぞ!」って言ったんですよ。そうしたら西が丘のベンチ上のスタンドから、FC東京のサポーターが覗いて、「監督、そんなの当たり前です」って言ってきたんです(笑)。そんないろんなことがありましたね。

 

ところでマラドーナが亡くなったのは残念ですね。マラドーナはやっぱりすごかった。フェイントってあんまりしないんですよ。相手を抜くときに誘い水でボールを取れるかどうかギリギリのところにさらすんですよ。それで相手がスライディングしてきたとき、ポンと飛んで抜くんですけど、着地するときにはボールが足に吸い付いているんですからね。だから5人抜き、あのときって何のフェイントもないんですから。すっとかわすだけ。カラダはずんぐりむっくりだけど太い足でね。

 

ただね、僕が思うに一番すごかった選手はヨハン・クライフ(故人)ですね。自陣のゴール前でスライディングして守ってたかと思うと、中盤でゲームを作り、相手のゴール前でジャンピングボレー決めますからね。ペレやマラドーナはハーフラインを越えてからの選手。だけどクライフだけは全面でプレーできましたからね。あれはクライフだけですよ。ただ嫁さんに弱かったね(笑)。

 

広島の牡蠣を取り寄せて料理することもある

僕は東洋工業にいたので、広島の牡蠣を取り寄せて料理することもあるんです。

 

東京では神楽坂、あの坂道を上がってたところで牡蠣専門店の「オイスター&ワイン 牡蠣屋バル」というのがあったんです。水槽があった店ですね。そこは美味しかったんですよ。でも2020年4月に閉店してしまいました。

 

もう一つは広島のお好み焼屋さん。新宿4丁目、外苑西通りで国立競技場から新宿に抜ける道があるんですけど、新宿御苑横の大京町交差点を、もうちょっと過ぎたら左に「鉄板焼・お好み焼 莢(SAYA)新宿内藤町本店」というお好み焼き屋があるんです。

 

国立競技場の夜の試合の後に歩いていたらそのお好み焼き屋があって「広島風」って書いてるんですよ。入ってみたらそこの親父さんが「松本さんですか?」って話しかけてきて。僕もサッカーやってましたって、愛媛の八幡浜工業でやってたそうですよ。

 

じゃこ天もありますよ。あとはタマネギをとろ火で20分間焼いてくれて、それが甘くなるんです。そこは年中牡蠣を焼いてくれるんですよ。お好み焼きもおいしいから締めはそれですよ。

 

あとは広島だったらちょっとうるさ型になるけど「酔心本店」と、その出店です。夏は牡蠣食べられないですけどね。広島に行ったらぜひ寄ってみてください。

 

紹介したお店

鉄板焼・お好み焼 莢(SAYA) 新宿内藤町本店
〒160-0014 東京都新宿区内藤町1-7 ケンジントンコート1F
3,500円(平均)800円(ランチ平均)

 

酔心 本店
〒730-0032 広島県広島市中区立町6-7
5,000円(平均)1,500円(ランチ平均)

 

松本育夫 プロフィール

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早稲田大学を経て東洋工業サッカー部に入団。現役時代はメキシコ五輪銅メダルを獲得している。指導者としては日本ユース代表、川崎フロンターレ、サガン鳥栖、栃木SC、地球環境高校などで指揮を執った。1941年生まれ、栃木県出身。

 

写真撮影:神山陽平/Backdrop

 

著者プロフィール

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

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